P--1033 P--1034 P--1035 #1持名鈔 #2本 持名鈔 本 ひそかに おもんみれは 人身うけかたく 仏教あひかたし しかるにいま 片州なれとも 人身をうけ  末代なれとも 仏教にあへり 生死をはなれて 仏果に いたらんこと いままさしく これときなり こ のたひ つとめすして もし三途に かへりなは まことに たからのやまにいりて 手をむなしくして  かへらんかことし なかんつくに 無常の かなしみは まなこのまへに みてり ひとりとしても たれ か のかるへき 三悪の火坑は あしのしたにあり 仏法を行せすは いかてか まぬかれん みなひと  こゝろを おなしくして ねんころに 仏道を もとむへし しかるに 仏道において さま〜の門あり  いはゆる 顕教 密教 大乗 小乗 権教 実教 経家 論家 その部 八宗九宗に わかれ その義 千 差万別なり いつれも 釈迦一仏の 説なれは 利益みな甚深なり 説のことく行せは ともに 生死をい つへし 教のことく修せは こと〜く 菩提をうへし たゝし とき末法におよひ 機下根になりて か の諸行に おいては その行成就して 仏果をえんこと はなはたかたし いはゆる 釈尊の滅後において  正像末の 三時あり そのうち 正法千年の あひたは 教行証の 三ともに 具足しき 像法千年の あ P--1036 ひたは 教行ありと いへとも 証果のひとなし 末法万年の あひたは 教のみありて 行証はなし い まの世は すなはち 末法のはしめなれは たゝ諸宗の教門は あれとも まことに 行をたて 証をうる ひとは まれなるへし されは 智慧を みかきて 煩悩を 断せんことも かなひかたく こゝろを し つめて 禅定を 修せんことも ありかたし こゝに 念仏往生の一門は 末代相応の要法 決定往生の  正因なり この門にとりて また 専修雑修の 二門あり 専修といふは たゝ弥陀一仏の 悲願に帰し  ひとすちに 称名念仏の一行を つとめて 他事を ましへさるなり 雑修といふは おなしく 念仏をま ふせとも かねて 他の仏菩薩をも念し また 余の一切の 行業をも くはふるなり このふたつの な かには 専修をもて 決定往生の業とす そのゆへは 弥陀の本願の 行なるかゆへに 釈尊付属の 法な るかゆへに 諸仏証誠の 行なるかゆへなり おほよそ 阿弥陀如来は 三世の諸仏の 本師なれは 久遠 実成の 古仏にて ましませとも 衆生の往生を 決定せんか ために しはらく 法蔵比丘となのりて  その正覚を 成したまへり かの 五劫思惟のむかし 凡夫往生の たねを えらひ さためられしとき  布施持戒 忍辱精進等の もろ〜の わつらはしき 行をは えらひすてゝ 称名念仏の 一行をもて  その本願と したまひき 念仏の行者 もし往生せすは われも 正覚をとらしと ちかひたまひしに そ の願 すてに成就して 成仏より このかた いまに 十劫なり 如来の正覚 すてに 成したまへり 衆 生の往生 なんそ うたかはんや これによりて 釈尊は この法を えらひて 阿難に付属し 諸仏は  P--1037 したをのへて これを 証誠したまへり かるかゆへに 一向に 名号を 称するひとは 二尊の 御こゝ ろにかなひ 諸仏の本意に 順するかゆへに 往生決定なり 諸行は しからす 弥陀選択の 本願にあら す 釈尊付属の 教にあらす 諸仏証誠の法に あらさるか ゆへなり されは 善導和尚の 往生礼讃の なかに くはしく 二行の得失を あけられたり まつ 専修の徳を ほめていはく もしよく かみのこ とく 念々相続して 畢命を 期とするものは 十はすなはち 十なからむまれ 百はすなはち 百なから むまる なにをもてのゆへに 外の雑縁なくして 正念を うるかゆへに 仏の本願に 相応するかゆへに  教に違せさるかゆへに 仏語に 随順するかゆへにと いへり 外の雑縁なくして 正念を うるかゆへに と いふは 雑行雑善を くはへされは そのこゝろ 散乱せすして 一心の正念に 住すとなり 仏の本 願と 相応するかゆへにと いふは 弥陀の本願に かなふといふ 教に違せさるかゆへにと いふは 釈 尊のおしへに たかはすとなり 仏語に 随順するかゆへにと いふは 諸仏のみことに したかふとなり  つきに 雑修の失を あけていはく もし専をすてゝ 雑業を修せんと するものは 百のときに まれに 一二をえ 千のときに まれに五三をう なにをもてのゆへに 雑縁乱動して 正念をうしなふに よるか ゆへに 仏の本願と 相応せさるに よるかゆへに 教と相違するかゆへに 仏語に 順せさるかゆへに  係念相続せさるかゆへに 憶想間断するかゆへに 廻願慇重 真実ならさるかゆへに 貪瞋諸見の煩悩 き たりて 間断するかゆへに 慙愧して とかを くゆること なきかゆへに また 相続して 仏恩を 念 P--1038 報せさるかゆへに 心に軽慢を生して 業行を なすといへとも つねに 名利と 相応するかゆへに 人 我 みつから おほひて 同行善知識に 親近せさるかゆへに ねかひて 雑縁に ちかつきて 往生の正 行を 自障々他 するかゆへにといへり 雑修のひとは 弥陀の本願に そむき 釈迦の所説に たかひ  諸仏の証誠に かなはすと きこえたり なをかさねて 二行の得失を 判していはく こゝろを もはら にして なすものは 十はすなはち 十なからむまる 雑を修して 心をいたささるものは 千のなかに  ひとりもなしといへり 雑修のひとの 往生しかたきことを いふに はしめには しはらく 百のときに  一二をゆるし 千のときに 五三をあくと いへとも のちには つゐに 千人のなかに ひとりも ゆか すとさたむ 三昧発得の人師 ことはを つくして 釈したまへり もとも これを あふくへし おほよ そ 一向専念 無量寿仏と いへるは 大経の誠説なり 諸行を ましふへからすと みえたり 一向専称  弥陀仏名と 判するは 和尚の解釈なり 念仏を つとむへしと きこえたり このゆへに 源空聖人 こ のむねを おしへ 親鸞聖人 そのおもむきを すゝめたまふ 一流の宗義 さらに わたくしなし まこ とに このたひ 往生を とけんと おもはんひとは かならす 一向専修の念仏を 行すへきなり しか るに うるはしく 一向専修に なるひとは きはめて まれなり かたきかなかに かたしと いへるは  経の文なれは まことに ことはりなるへし そのゆへを 案するに いつれの 行にても もとより つ とめきたれる行を すてかたくおもひ 日ころ 功をいれつる 仏菩薩を さしおきかたく おもふなり  P--1039 これすなはち 念仏を行すれは 諸善は そのなかに あることをしらす 弥陀に帰すれは 諸仏の 御こ ゝろに かなふと いふことを 信せすして 如来の功徳を うたかひ 念仏のちからを あやふむかゆへ なり おほよそ 持戒坐禅の つとめも 転経誦呪の善も その門に入りて 行せんに いつれも 利益む なしかるましけれとも それはみな 聖人の修行なるかゆへに 凡夫の身には 成しかたし われらも 過 去には 三恒河沙の 諸仏の みもとにして 大菩提心を おこして 仏道を 修せしかとも 自力かなは すして いまゝて 流転の凡夫となれり いま この身にて その行を修せは 行業成せすして さためて  生死を いてかたし されは 善導和尚の釈に わか身 無際より このかた 他とともに 同時に 願を おこして 悪を断し 菩薩の道を 行しき 他はこと〜く 身命をおします 道を行し くらゐにすゝみ て 因まとかに 果熟す 聖を証せるもの 大地微塵に こえたり しかるに われら凡夫 乃至今日まて  虚然として 流浪すと いへるは このこゝろなり しかれは 仏道修行は よく〜 機と教との 分限 をはかりて これを行すへきなり すへからく 末法相応の 易行に帰して 決定往生の のそみを とく へしとなり そも〜 この念仏は たもちやすき はかりにて 功徳は 余行よりも 劣ならは おなし く つとめなからも そのいさみ なかるへきに 行しやすくして 功徳は 諸行にすくれ 修しやすくし て 勝利は 余善に すくれたり 弥陀は 諸仏の本師 念仏は 諸教の 肝心なるかゆへなり これによ りて 大経には 一念をもて 大利無上の 功徳ととき 小経には 念仏をもて 多善根 福徳の因縁と  P--1040 するむねをとき 観経には 念仏の行者を ほめて 人中の 分陀利華に たとへ 般舟経には 三世の諸 仏 みな 弥陀三昧によりて 正覚を なるととけり このゆへに 善導和尚の釈に いはく 自余衆善  雖名是善 若比念仏者 全非比校也と いへり こゝろは 自余の もろ〜の善も これ善と なつくと  いへとも もし念仏に たくらふれは またく ならへ たくらふへきに あらすとなり またいはく 念 仏三昧 功能超絶 実非雑善 得為比類と いへり こゝろは 念仏三昧の功能 余善に こえすくれて  まことに 雑善をもて たくひと することを うるにあらすとなり たゝ 浄土の一宗のみ 念仏の行を  たうとむにあらす 他宗の高祖 またおほく 弥陀を ほめたり 天台大師の釈にいはく 若唱弥陀 即是 唱十方仏 功徳正等 但専以弥陀 為法門主と いへり こゝろは もし弥陀を となふれは すなはちこ れ 十方の仏を となふると 功徳まさにひとし たゝもはら 弥陀をもて 法門の あるしとすとなり  また 慈恩大師の釈に いはく 諸仏願行 成此果名 但能念号 具包衆徳と いへり こゝろは 諸仏の 願行 この果の名を成す たゝよく みなを念すれは つふさに もろ〜の徳を かぬとなり おほよそ  諸宗の人師 念仏をほめ 西方を すゝむること あけて かそふへからす しけきかゆへに これを略す  ゆめ〜 念仏の功徳を おとしめ おもふことなかれ しかるに ひとつねに おもへらく つたなきも のゝ 行する法なれは 念仏の功徳は おとるへし たうときひとの 修する教なれは 諸教は まさるへ しと おもへり その義 しからす 下根のものゝ すくはるへき 法なるかゆへに ことに 最上の法と P--1041 は しらるゝなり ゆへいかんとなれは くすりをもて やまひを 治するに かろきやまひをは かろき  くすりをもて つくろひ おもきやまひをは おもきくすりをもて いやす やまひを しりて くすりを  ほとこす これを 良医となつく 如来は すなはち 良医のことし 機を かゝみて 法を あたへたま ふ しかるに 上根の機には 諸行を さつけ 下根の機には 念仏を すゝむ これすなはち 戒行もま たく 智慧も あらんひとは たとへは やまひあさき ひとのことし かゝらんひとをは 諸行の ちか らにても たすけつへし 智慧もなく 悪業ふかき 末世の 凡夫は たとへは やまひ おもき ものゝ ことし これをは 弥陀の名号の ちからに あらすしては すくふへきにあらす かるかゆへに 罪悪の 衆生の たすかる法と きくに 法のちからの すくれたるほとは ことに しらるゝなり されは 選択 集のなかに 極悪最下の ひとのために しかも 極善最上の法をとく 例せは かの無明淵源の やまひ は 中道府蔵の くすりに あらされは すなはち 治すること あたはさるかことし いまこの五逆は  重病の 淵源なり また この念仏は 霊薬の府蔵なり このくすりに あらすは なんそ このやまひを  治せんと いへるは このこゝろなり そも〜 弥陀如来の 利益の ことにすくれ たまへることは  煩悩具足の凡夫の 界外の報土に むまるゝかゆへなり 善導和尚の釈にいはく 一切仏土皆厳浄 凡夫乱 想恐難生 如来別指西方国 従是超過十万億と いへり こゝろは 一切の仏土は みないつくしく きよ けれとも 凡夫の乱想 おそらくは むまれかたし 如来別して 西方国を さしたまふ これより 十万 P--1042 億を こえすきたりとなり ことに 阿&M041309;宝生の浄土も たえにして すくれたり 密厳花蔵の宝刹も き よくして めてたけれとも 乱想の凡夫は かけをもさゝす 具縛のわれらは のそみをたてり しかるに  阿弥陀如来の 本願は 十悪も 五逆も みな摂して きらはるゝ ものもなく すてらるゝ ものもなし  安養の浄土は 謗法も 闡提も おなしく むまれて もるゝひともなく のこるひともなし 諸仏の浄土 に きらはれたる 五障の女人は かたしけなく 聞名往生の 益にあつかり 無間のほのほに まつはる へき 五逆の罪人は すてに 滅罪得生の 証をあらはす されは 超世の悲願ともなつけ 不共の利生と も号す かゝる殊勝の法なるかゆへに これを行すれは 諸仏菩薩の 擁護にあつかり これを修すれは  諸天善神の 加護をかうふる たゝ ねかふへきは 西方の浄土 行すへきは 念仏の一行なり 持名鈔 本 P--1043 #2末 持名鈔 末 問ていはく 念仏の行者 神明に つかふまつらんこと いかゝ はんへるへき こたへていはく 余流の所談は しらす 親鸞聖人の 勧化のこときは これを いましめられたり いは ゆる 教行証の文類の六に 諸経の文をひきて 仏法に 帰せんものは その余の 天神地祇に つかふま つる へからさる むねを 判せられたり この義の こときは 念仏の行者に かきらす 総して 仏法 を行し 仏弟子に つらならん ともからは これに つかふへからすと みえたり しかれとも ひとみ な しからす さためて 存するところある歟 それを 是非するにはあらす 聖人の一流に おきては  もとも その所判を まもるへき ものをや おほよそ 神明につきて 権社実社の 不同ありと いへと も 内証はしらす まつ 示同のおもては みなこれ 輪廻の果報 なをまた 九十五種の 外道のうちな り 仏道を 行せんもの これを ことゝすへからす たゝし これに つかへすとも もはら かの神慮 には かなふへきなり これすなはち 和光同塵は 結縁のはしめ 八相成道は 利物のおはり なるゆへ に 垂迹の本意は しかしなから 衆生に 縁をむすひて つゐに 仏道に いらしめんか ためなれは  P--1044 真実念仏の 行者になりて このたひ 生死を はなれは 神明 ことに よろこひを いたき 権現 さ ためて ゑみをふくみ たまふへし 一切の 神祇冥道 念仏のひとを 擁護すと いへるは このゆへな り 問ていはく 念仏の行者は 諸仏菩薩の 擁護にも あつかり 諸天善神の 加護をも かうふるへしと  いふは 浄土に 往生せしめんかために たゝ信心を 守護したまふ歟 また 今生の穢体をも まもりて  もろ〜の 所願をも 成就せしめ たまふ歟 あきらかに これを きかんとおもふ こたへていはく かの仏の心光 このひとを 摂護して すてすともいひ 六方の諸仏 信心を 護念すと も 釈すれは 信心をまもり たまふことは 仏の本意なれは まふすに およはす しかれとも まこと の信心を うるひとは 現世にも その益に あつかるなり いはゆる 善導和尚の 観念法門に 観仏三 昧経 十往生経 浄土三昧経 般舟三昧経等の 諸経をひきて 一心に 弥陀に帰して 往生をねかふ も のには 諸仏菩薩 かけのことくに したかひ 諸天善神 昼夜に 守護して 一切の災障 をのつから  のそこり もろ〜の ねかひ かならす みつへき義を 釈したまへり されは 阿弥陀仏は 現世後生 の利益 ともに すくれたまへるを 浄土の三部経には 後生の 利益はかりを とけり 余経には おほ く 現世の益をも あかせり かの金光明経は 鎮護国家の 妙典なり かるかゆへに この経より とき いたす ところの 仏菩薩をは 護国の 仏菩薩とす しかるに 正宗の 四品のうち 寿量品を ときた P--1045 まへるは すなはち 西方の 阿弥陀如来なり これによりて 阿弥陀仏をは ことに 息災延命 護国の 仏とす かの天竺に 毘舎離国といふ くにあり そのくにゝ 五種の疫癘 おこりて ひとことに のか るゝもの なかりしに 月蓋長者 釈迦如来に まひりて いかにしてか このやまひを まぬかるへきと  まふししかは 西方極楽世界の 阿弥陀仏を 念したてまつれと おほせられけり さて いえにかへりて  おしへのことく 念したてまつりけれは 弥陀観音 勢至の三尊 長者のいえに きたりたまひしとき 五 種の疫神 まのあたり ひとの目にみえて すなはち 国土をいてぬ ときにあたりて くにのうちのやま ひ こと〜く すみやかに やみにき そのとき 現したまへりし 三尊の形像を 月蓋長者 閻浮檀金 をもて 鋳うつし たてまつりけり その像といふは いまの 善光寺の如来 これなり 霊験まことに  厳重なり また わか朝には 嵯峨の天皇の 御とき 天下に 日てり あめくたり やまひおこり いく さいてきて 国土 おたやか ならさりしに いつれの行の ちからにてか この難は とゝまるへきと  伝教大師に 勅問ありしかは 七難消滅の法には 南無阿弥陀仏に しかすとそ まふされける おほよそ  弥陀の 利生にて わさはひを はらひ 難をのそきたる ためし 異国にも 本朝にも そのあと これ おほし つふさに しるすに いとまあらす されは くにの 災難を しつめ 身の不祥を はらはんと  おもはんにも 名号の 功用には しかさるなり たゝし これは たゝ 念仏の利益の 現当を かねた る ことを あらはすなり しかりと いへとも まめやかに 浄土をもとめ 往生を ねかはん ひとは  P--1046 この念仏をもて 現世の いのりとは おもふへからす たゝ ひとすちに 出離生死の ために 念仏を  行すれは はからさるに 今生の 祈祷とも なるなり これによりて 藁幹喩経と いへる 経のなかに  信心をもて 菩提を もとむれは 現世の 悉地も 成就すへき ことを いふとして ひとつの たとへ を とけることあり たとへは ひとありて たねをまきて いねを もとめん またく わらを のそま されとも いね いてきぬれは わら おのつから うるかことしと いへり いねを うるものは かな らす わらを うるかことくに 後世を ねかへは 現世の のそみも かなふなり わらを うるものは  いねを えさるかことくに 現世の 福報を いのるものは かならすしも 後生の 善果をは えすとな り 経釈の のふるところ かくのことし たゝし 今生を まもりたまふ ことは もとより 仏の 本 意に あらす かるかゆへに 前業 もしつよくは これを 転せぬことも おのつから あるへし 後生 の 善果を えしめんことは もはら 如来の 本懐なり かるかゆへに 無間に 堕すへき 業なりとも  それをは かならす 転すへし しかれは たとひ もし 今生の 利生は むなしきに にたること あ りとも ゆめ〜 往生の 大益をは うたかふ へからす いはんや 現世にも その利益 むなしかる ましき ことは 聖教の 説なれは あふいて これを 信すへし たゝふかく 信心を いたして 一向 に 念仏を 行すへきなり 問ていはく 真実の 信心をえて かならす 往生を うへしと いふこと いまた そのこゝろをえす  P--1047 南無阿弥陀仏と いふは 弥陀の 本願なるかゆへに 決定往生の 業因ならは これを くちに ふれん もの みな 往生すへし なんそ わつらはしく 信心を 具すへしといふや また 信心と いふは い かやうなる こゝろを いふそや こたへていはく 南無阿弥陀仏と いへる 行体は 往生の 正業なり しかれとも 機に信すると 信せ さるとの 不同 あるかゆへに 往生を うると えさるとの 差別あり かるかゆへに 大経には 三信 と とき 観経には 三心と しめし 小経には 一心とあかせり これみな 信心を あらはす ことは なり このゆへに 源空聖人は 生死のいえには うたかひをもて 所止とし 涅槃のみやこには 信をも て 能入とすと判し 親巒聖人は よく 一念喜愛の心を おこせは 煩悩を 断せすして 涅槃をうと  釈したまへり 他力の信心を 成就して 報土の往生を うへしと いふこと すてに あきらかなり そ の信心といふは うたかひ なきをもて 信とす いはゆる 仏語に 随順して これを うたかはす た ゝ師教を まもりて これに 違せさるなり おほよそ 無始より このかた 生死に めくりて 六道四 生を すみかとせしに いま なかき輪廻の きつなをきりて 無為の 浄土に 生せんこと 釈迦弥陀  二世尊の 大悲に よらすと いふことなく 代々相承の 祖師先徳 善知識の 恩徳に あらすと いふ ことなし そのゆへは われらか ありさまを おもふに 地獄餓鬼畜生の 三悪を まぬかれんこと 道 理としては あるましき ことなり 十悪三毒 身にまつはれて とこしなへに 輪廻生死の 因をつみ  P--1048 五塵六欲 こゝろにそみて ほしいまゝに 三有流転の 業をかさぬ 五篇七聚の 戒品 ひとつとして  これを たもつことなく 六度四摂の 功徳 ひとつとして こゝろにも かけす あさなゆふなに おこ すところは みな妄念 とにもかくにも きさすところは こと〜く 悪業なり かゝる 罪障の 凡夫 にては 人中天上の 果報を えんことも なを かたかるへし いかにいはんや 出過三界の 浄土に  むまれんことは おもひよらぬ ことなり こゝに 弥陀如来 無縁の慈悲に もよほされ 深重の弘願を  おこして ことに 罪悪生死の 凡夫を たすけ ねんころに 称名往生の 易行を さつけ たまへり  これを 行し これを 信するものは なかく 六道生死の 苦域を いてゝ あまさへ 無為無漏の 報 土に むまれんことは 不可思議の さひはひなり しかるに 弥陀如来 超世の 本願を おこし たま ふとも 釈迦如来 これを ときのへ たまはすは 娑婆の衆生 いかてか 出離のみちを しらん され は 法事讃の釈に 不因釈迦仏開悟 弥陀名願何時聞と いへり こゝろは 釈迦仏の おしへに あらす は 弥陀の名願 いつれのときにか きかんとなり たとひまた 釈尊 西天に いてゝ 三部の妙典をと き 五祖 東漢に むまれて 西方の往生を おしへ たまふとも 源空親巒 これをひろめ たまふこと なく 次第相承の 善知識 これをさつけ たまはすは われらいかてか 生死の根源を たゝん まこと に 連劫累劫を ふとも その恩徳を むくひかたき ものなり これによりて 善導和尚の 解釈を う かかふに 身を粉にし ほねを くたきても 仏法の恩をは 報すへしと みえたり これすなはち 仏法 P--1049 の ためには 身命をもすて 財宝をも おしむへからさる こゝろなり このゆへに 摩訶止観の なか には 一日に みたひ 恒沙の 身命を すつとも なを 一句のちからを 報すること あたはし いは んや 両肩に 荷負して 百千万劫すとも むしろ 仏法の恩を 報せんやといへり 恒沙の身命を すて ゝも なを 一句の法門を きける むくひには およはす まして 順次往生の 教をうけて このたひ  生死を はなるへき 身となりなは 一世の身命を すてんは ものゝかす なるへきにあらす 身命 な をおしむへからす いはんや 財宝をや このゆへに 斯琴王の 私訶提仏に つかへ 梵摩達か 珍宝比 丘に つかへし 飲食衣服 臥具医薬の 四事の 供養を のへき これみな 念仏三昧の法を きかんか  ためなり おほよそ 仏法に あふことは おほろけの 縁にては かなはす おろかなる こゝろさしに ては とけかたき ことなり 大王の 妙法をもとめし 給仕を 千載に いたし 常啼の 般若をきゝし  五百由旬の 城にいたる されは 仏法を 行するには いえをもすて 欲をもすてゝ 修行すへきに 世 をも そむかす 名利にも まつはれなから めてたき 無上の 仏法をきゝて なかく 輪廻の故郷を  はなれんことは ひとへに はからさる さひはひなり まことにこれ 本師知識の 恩徳に あらすと  いふことなし ちからの たへんに したかひて いかてか 報謝の こゝろさしを ぬきいて さらんや  長阿含経のなかに 師長に つかふまつるに いつゝのこと あることをとけり 一には 給仕をいたし  二には 礼敬供養す 三には 尊重頂戴す 四には 師教勅あれは 敬順して たかふことなし 五には  P--1050 師にしたかひて 法をきゝ よくたもちて わすれすと いへり しかれは きくところの法を よくたも ち その命を すこしも そむかす こゝろさしを ぬきいてゝ 給仕供養をいたし まことを はけまし て 尊重礼敬 すへきなり これすなはち 木像 ものいはされは みつから 仏教を のへす 経典 く ちなけれは てつから 法門を とくことなし このゆへに 仏法を さつくる 師範をもて 滅後の如来 と たのむへきか ゆへなり しかのみならす 善導和尚は 同行善知識に 親近せよと すゝめ 慈恩大 師は 同縁のともを うやまへと のへられたり そのゆへは 善知識に ちかつきては つねに 仏法を  聴聞し 同行に むつひては 信心を みかくへしと いふこゝろなり わろからん ことをは たかひに  いさめ ひかまん ことをは もろともに たすけて 正路に おもむかしめんか ためなり かるかゆへ に 師のおしへを たもつは すなはち 仏教を たもつなり 師の恩を 報するは すなはち 仏恩を  報するなり 同行の ことはを もちゐては すなはち 諸仏の みことを 信する おもひを なすへし  他力の 大信心を うるひとは その内証 如来に ひとしき いはれ あるかゆへなり 持名鈔 末